日置流印西派(その2)現在もっとも信用されている通説を元に、日置流印西派の歴史についてもう少し掘り下げて説明してみようと思います。 射術修行のため諸国を遊歴していた日置弾正正次はついに悟りを開き、近江の吉田出雲守重賢にのみ弓の奥義を伝授します。重賢の嫡男吉田出雲守重政も正次の教えを受け、父より唯受一人を伝授されます。吉田家は近江守護であった近江源氏佐々木六角家と同族であり旗下に列します。重政は主君である佐々木左京太夫義賢に弓術を伝授し、弓術天下無双とまで言われるほど腕前になったと言います。義賢は重政に唯受一人の伝を授けるように願い出ましたが、唯受一人は血族以外に出すものではなく、重政が頑なに断った為に義賢との関係を悪化させて、重政は知行を捨てて越前の一条谷へ逃れます。朝倉義景の取り計らいで重政は近江に帰ることになり、知行も回復・加増され義賢に唯受一人を伝授します。樋口臥龍の説によれば、この騒動の中で吉田出雲守重政は日置・吉田流の真伝を敢えて吉田六左衛門重勝(日置流雪荷派流祖)に伝え、義賢には日置流の真伝を教えなかったとしています。さて、重政の嫡子吉田出雲守方郷(まさのり)は幼少期より義賢に弓を習い上巧の射手となり、唯受一人を吉田の家に返し授けられました。やがて箕作城の合戦が起きて義賢は没落し、佐々木六角家は大きく石高を減らす事になり家臣の多くは浪人となり、やがて吉田宗家も流浪の士となったのでした。 方郷の嫡男吉田助左衛門道春は父らと共に近江から離れ、道春の弟である吉田左近右衛門業茂が仕えている前田利家が治める金沢の地へ遊客として身を寄せます。間もなく若くして道春が病で亡くなり、跡取りが未だ幼少であった為に同じく金沢に遊客として訪れていた葛巻源八郎重氏が方郷の長女(道春の姉)の婿となり吉田家の後を継ぎます。樋口臥龍氏らの説(明良洪範という江戸時代の書物に記されていた事柄が元と言われている)によれば、道春が死期を悟り重氏を枕元に呼び、幼少の豊隆(道春の嫡子)が成人したら返すという約束で、吉田家の伝書一切を重氏に託します。しかし、豊隆が成人となっても重氏は伝書を一向に返す気配がなく、吉田一族が一堂に会した際に、重氏に授けた伝書と全く同じ物を道春から託されていた道春夫人が、親族列席の中で息子の豊隆に伝書一切を授けて吉田宗家を継がしたとの事です。真偽はともかく話しを進めていきます。 重氏は越前の地で盛名となり一水軒印西と号し、晩年は京の伏見に居を移し射術指導に専念します。参勤交代で江戸に登る途中の大名が印西の射術指導を受けるようになり、江戸の将軍家までその盛名が聞こえ徳川家康・秀忠に拝謁するに至ります。印西の跡継ぎである九馬介重信も徳川家光に召出されて将軍家弓術指南役として旗本に列する事になりました。他方、豊隆は明良洪範によれば奥州伊達家客分として四千石という破格の待遇を受けますが(重政の妹が伊達輝宗(独眼竜政宗の父)の側室となっている事が由縁かと)、吉田家嫡流として印西の跡取り重信が将軍家弓術指南役になったことを聞き及び、伊達家の扶持を辞して江戸に上り、阿部家を通じて公儀に対して「吉田の嫡流は豊隆である」と訴え出ました。しかし、既に定まった指南役を変更すること能わず、阿部家に客分として500石で江戸に待機することになりました。豊隆は念願が成就せぬままこの世を去り、豊隆嫡男「豊要」も公儀に対し申し立てを行ったようですが阿部家が代替わりになった際に浪人となりました。豊隆二男「豊覚」は阿部家に残り、各地に転封されて最後に備後福山藩へ入封した際にも従い家芸を明治まで伝えます。 結局、日置弾正から吉田家に伝わった真伝はどの「派」に伝わったのか?樋口臥龍氏の説を押す方々は当然雪荷派であると仰るだろうし、血脈から考えれば出雲派の豊隆の筋を押すだろうし、後述する様々な事象を勘案すれば印西派であるとも言えます。また、伝書に記された内容(何ヶ条か?)が多い方が真伝であるかのような論調も多く見受けられますが、後述の「日置の源流」では、吉田重政と弟の吉田若狭守が重賢より伝わった120ヶ条を整理整頓して60ヶ条にまとめたともあり、判断材料としては如何なモノかな?とも思います。ただ、日置弾正の存在実体が明らかでないし、各派により各々にとって都合の良い歴史が恐らく創作されて、真伝云々と言う以前に歴史の摺り合わせが必要だと思います。一次資料が殆どない現在では難しい作業だと思いますが・・・。 さて、平成17年12月に日置流の通説を根底から揺るがせ書籍が発行されました。当WebSiteでも「日置流印西派」の項で紹介しましたが、太陽書房の「日置の源流」です。岡山大学体育会弓道部OB会の方々が中心になって編集されています。内容たるや驚きの連続で、今までは不連続であった歴史をなめらかに繋ぐ新事実(!?)が紹介されるなど、歴史ファンにとっては一見の価値は大いにあります。また、弓の技術に関する伝書も活字化され現代に生きる射手であっても大いに役立つことは間違いないでしょう。「日置の源流」を編集した中心人物の一人でもある岡山の守田勝彦氏が、当WebSiteの掲示板に立ち寄られ、引用を許可していただきましたので少しだけ紹介してみたいと思います。 備中足守藩の吉田宗家に伝わってきた種々の伝書類が活字化され、宗家筋にだけ伝承(唯受一人)されていた秘密事柄が本邦で初めて一般公開されました。唯受一人の許しを受けねば知り得なかった吉田家と葛巻家の関係、印西と豊隆の係争と顛末、備前岡山藩と備中足守藩の印西派々祖である「吉田覚兵衛良方(多兵衛)」と印西の関係など、今まで全く世間には知られていない事柄満載です。 最も驚いた吉田家と葛巻家の関係について簡単にご紹介します。まずは下の系図をご覧下さい。驚愕でした。他姓に出す免許皆伝では知らされていない事実、日置弾正は吉田重賢の異名であること。通説では重賢と重政は親子であると言われていたが兄弟であり、しかも葛巻からの養子であること。吉田家と葛巻家の密接な繋がり・・・。 備中足守藩吉田家弓術文書(目録番号64番)「吉田葛巻系図」より 「吉田出雲守重賢弓名仁(めいじん)たる故(ゆえ)、日置流トたてて、当流の先祖也(なり)、其あとあとタヤスまじき為ニ、子息これ無きハ門弟之内ニ而(て)吉田の家をつぐべきものニハ家の大事の唯受一人の巻物をゆずり、ようようといたして家をつぐ也。葛巻のいへより継ぐ也。」 とあります。 また、印西と豊隆の係争の件ですが、豊隆が印西を排除した系図を作成し、それが将軍に聞こえ死罪を仰せ付けられた所を、印西の跡継ぎ重信の助命嘆願で八丈島への流罪に処せられたとあります。豊隆は印西系を疎ましく思っていたことは考えるに難くありませんが、事の顛末が流罪とは何とも・・・。 歴史好きなので日置流の歴史に重点を置いて記述して参りましたが、唯受一人の者だけに伝承されてきた弓の技術(奥義を垣間見る事が出来るかも?)に関する記述など、読めば読むほどに新しい発見があります。ただ、1つ疑問に思っているのが、印西の弟にあたる吉田彦左衛門定勝が葛巻姓ではなくなぜ吉田姓なのか?という点です。印西・定勝の実父源八郎(市之丞)重勝は葛巻であったはずなのに(観音寺騒動の際に吉田源八郎で登場しているので何とも言えないところ)、定勝以後は総じて吉田姓になっています。歴史の表に登場しないだけで葛巻家は誰かが継いでいるのか?それとも全て吉田を名乗るようになったのか?何度も読み返しましたが、納得できる記述には巡り会えませんでした(ちゃんと読んでいないだけか?)。ただ、当時の文化では名字が使い分けられたりしていますので(秀吉を例にしますと、木下・羽柴・豊臣・藤原)、現在の考え方を当てはめること自体に無理があるのかもしれません。また、当時は家芸を継いでいくことに意味があり、血の繋がりよりも技術の伝承に重きが置かれた事も考慮しなければならないと思います。一度守田様に尋ねてみようかな?久しぶりに岡山に行きたいという衝動に駆られてしまいます。近々後楽園弓道射会もありますし・・・。さてどうしようかな?
参考文献 日置の源流 岡山大学体育会弓道部OB会編 太陽書房 備前岡山藩の弓術 守田勝彦編著 吉備人出版 日置吉田流の真相と家伝の弓術古文書 重野永清 日本武道全集 第三巻 弓術・馬術 人物往来社 ごさんべえのぺーじ 吉田家 賀陽郡足守村(吉備郡誌より) |