皇宮警察創立70周年「記念弓道大会」(戦後初の天覧試合)


 稲垣源四郎先生の著書の巻末にある著者略歴には必ず、「昭和31年5月に行われた戦後初の天覧試合にて優勝」とあります。しかしながら、「全日本弓道連盟創立三十周年記念特別号・昭55」、「全日本弓道連盟創立四十周年記念誌・平2」の何処を探しても全く掲載されていません。その試合が行われることになった経緯や、その試合の審査や礼射を担当された範士の方々の意気込みなど、様々な事象を勘案しても、戦後弓道界においては重要な大会であったと考えることが出来ます。編集される方々の考えがあって載せなかったのだと思いますが、自分としては「どうしてかなー?」と思っています。そこで、この頁では、その大会の様子を簡単にご紹介しようと思います。


 明治19年、宮内省に皇居守護の大佐を負うて皇宮警察が創立されてから70年目に当たる昭和31年、これを記念して5月20日に皇居内済寧館において柔・剣・弓 三道の大会が開催されました。弓道においては皇宮警察部内の優勝演武のほか、弓道連盟の幹部の方々より熟慮詮議を重ね上で選抜招待された、東京を中心とした関東地区の20名の射手による試合が行われました(下記の試合結果で確認下さい)。3回の演武を経て採点法により6人が選抜され、準決勝以降は射詰めによる的中制をもって優勝を決しました。また、最後の3名による決勝戦は、天皇・皇后両陛下をお迎えしての戦後初となる天覧試合を賜る事となりました。当日の審査は、宇野要三郎・浦上栄・鈴木伊兵衛・安沢平次郎・鈴木弘之・千葉胤次の6範士が担当しました。

 開幕劈頭の矢渡しは皇宮警察師範である鈴木弘之範士が行い、採点制である1〜3回戦が開始されました。3回戦終了後に昼食休憩となり、安沢平次郎範士の礼射を以て午後の試合が開始されました。準決勝終了後、浦上栄範士による礼射が行われ一旦休憩となり、天皇皇后両陛下臨御の玉座の御前にて、宇野要三郎範士の礼射が行われ、稲垣源四郎・中野慶吉・渡辺敏雄の3教士による決勝戦が開始されました。柔・剣道の試合は既に終了しており、大勢の武道家が弓道場に訪れて3教士の白熱した試合に息を呑みました。試合の結果は、稲垣教士が中野・渡辺両教士を斥けて晴れの優勝を遂げました。(下記の試合結果を参照下さい)


天覧試合終了後のエピソード
−日本の武道「弓道・なぎなた」講談社より一部抜粋−
 (決勝戦の話) 尺二11手ののち、八寸的で勝負を決した。1位・稲垣、しかし2位、3位の決定は、八寸的的中なしで、遠近により決定した。たまたまこの日、先生(浦上栄先生のこと)は矢渡し(礼射と思います)をされたが、肩の病が快癒されておらず、一手を失敗された。
 大会の授賞式も終わり、道場の控えの間で先生と二人、ただなんとなくいろりをはさんで向かい合って座って、私は無言で先刻までのことを心の内に思い返して味わっていた。その時、先生は「今日、わたしは2本ともうまく引けなかった。ただし、あなたが全国の人に勝ってくださった。これで日置流の面目が立ちました。ありがたく思います」と、ポツリといわれた。
 かつて、一矢不抜の名人≠ニいわれた先生のこのことばを聞き、身体不調のための結果とはいえ、先生の胸中を思い、また喜んでくださっている先生のまぶたの裏の涙を思うと、わたしは不覚の涙をとめることができなかった。先生と二人きり、しばらくは無言の、あの時の部屋のたたずまいは、今でも脳裡に焼き着いている。


[余談]一矢不抜の名人≠ニ言われた所以
−日本の武道「弓道・なぎなた」講談社より一部抜粋−
 先生は、後年、左の肩をもみ治療の際、不幸にも痛められ、神経を病まれてからは、どうかすると外されたが、昭和26年5月の日本選手権大会−大的で優勝−の前までは、人の前で外されたということはほとんどない。早大弓道部の現存記録には、合宿中の一日百本の稽古をのぞいて、一本も失中がない。
 弓は中らなければならず、外れるのは未熟のためで、正射はかならず中るものであり、中りに向かって真剣な修行をするところに弓道がある、と教えられ、また身をもって示されたのが浦上先生であった。


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