(平成19年4月29日〜) 徳川将軍家と日置当流 徳川最後の将軍である、徳川慶喜公爵の射影です。 さて、慶喜公は御三家水戸徳川家に生まれ、御三卿一橋家を相続し、後に徳川宗家となり、徳川最後の将軍に就任します。短絡的に考えれば、徳川将軍=日置流印西派・日置当流と思いがちですが、慶喜公が将軍に就任した時には、政局の中心は既に江戸から京都に移っており、慶喜公は京に在して執務し、将軍在任中は江戸城で執務したことが無く、慶喜公が日置当流を学んだとはどうしても考えにくいのです(恐らく、日置当流は学んでいないでしょう。)。上の射影も水戸徳川家の弓と一橋家の弓の流れを受け継いでいると思われます。
(追記:慶喜公の弓の核は?) 佐野四郎右衛門信好(弓道人名大事典より一部抜粋) 一橋家を相続してからは小笠原縫殿助に弓を習ったとあります。縫殿助も代々名乗られている様なので、弓道人名大事典から縫殿助家と時系列を考慮して調べてみますと、小笠原持高と小笠原鐘次郎が該当しました。他に居るのかもしれませんが、これ以上は調べることが出来ませんでした。(参考:一橋家相続は1847(弘化4)年) 小笠原縫殿助持高(弓道人名大事典より一部抜粋) 慶喜公の学問(文武)形成は一橋家時代であるといわれ、「徳川の流れを清ましめん御仁」とも評され、将軍位に就くと、「権現様の再来」とまでその英明を称えられたそうです。ただ弓に関しては、武士の嗜みとして少年期に大和流を佐野四郎右衛門から学び、趣味の中でも「弓」を最も得意として晩年まで嗜んだ事実や、上の写真からも分かるように日置の流れを感じさせますので、慶喜公の弓の核は水戸時代に学んだ大和流ではないかと勝手に考えています。一橋時代には小笠原縫殿助に弓を習ったとありますが、弓は射技だけでなく射礼も重要な要素であり、しかも騎射を習う必要もあったと思われますので、大和流の射も行いながら小笠原流も学んだのではないかと、これもまた勝手に推測しています。 〜徳川将軍家と日置当流〜 (ちょっと横道に逸れてみます) 印西先生の弟にあたる吉田定勝先生は、日置流印西派弓術を以て大名池田家に仕え、代々池田家の弓術指南役となり幕末まで続きます。備前岡山藩6代目当主・斉政公は、備前印西派宗家・吉田考方先生に若い頃より弓を仕込まれ射技精妙であったと言います。池田斉政公の時代は11代将軍徳川家斉公の時代でもありました。斉政公は同じく日置流印西派(日置当流)弓術であった将軍家斉公との競射に勝ち、備前岡山藩の池田家に限り将軍家と同じように「日置当流」と称す事を許され、以後岡山の地では印西派とは言わずに、誇りをもって「日置当流」と称す様になりました。 話がまた逸れますが、池田斉政公の嫡子斉輝は父より早く23歳で死去してしまい、翌年には斉輝の長男本之丞も5歳で死去してしまいます。そのため、弟政芳の長男斉成を養子に迎えたのですが、18歳で死去してしまいました。その後、幕府から将軍家斉公の子を養子に迎えるように持ち掛けられるものの断わり、島津家から斉敏(為政(母が池田家出身))を婿養子として迎え、やがて養子斉敏に家督を譲りました。 私の住んでいる徳島は江戸時代には阿波藩と呼ばれ、豊臣秀吉と縁の深かった蜂須賀家が治めていました。将軍が丁度家斉公の時代に、蜂須賀家も池田家と同じように跡継ぎに恵まれず、将軍家斉公の第22子斉裕を養嗣子として迎えます。将軍家の嫡男以外の男子の多くは養子に出されることが多かったのですが、その殆どが親藩であり、外様大名の養嗣子となったのは蜂須賀家に入った斉裕だけになります。 (参考文献及びWebSite) |